2006年 12月 19日
パイレーツといえば・・・ |
元ジャイアンツの桑田真澄がメジャー・リーグのピッツバーグ・パイレーツと契約を結んだという。
ハッキリいって、これまでは桑田がどこの球団に行こうがぜんぜん興味なかった。
が、パイレーツに決めた理由はロベルト・クレメンテ・・・というのを聞いて、見直しましたよ。
1億円の借金(だったかな! 古っ!)とか、なんか、悪いイメージしかなかったんですが。
「ロベルト・クレメンテにならって、ボクもチャリティをやるようになりました」とTVでしゃべってるのを聞いて、なんだ、メチャメチャいいヤツじゃん!って、安直すぎか・・・。
ロベルト・クレメンテといったら、現在、メジャー・リーグで大活躍するラテン系プレイヤーたちの先駆者的存在である。
以下、1998年、サミー・ソーサとマーク・マグワイアがホームラン王争いを繰り広げたときに月刊「ラティーナ」に書いた記事を掲載します。
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日本でも大いに話題になった大リーグのホームラン王争いは、ご存知のとおり、マーク・マグワイアが70本というとてつもない記録を打ち立てて終わった。が、筆者も含めて、特に本誌の読者の中には、サミー・ソーサの方を熱烈に応援していた人も少なくないことと思う。ホント、惜しかったですよね。一応、マグワイアには62号の新記録で華を持たせといて、最終的にはソーサだ!と確信していたんですが、残念でした。でも、どうですか? 印象としては、ソーサの印象の方が格段に強いんじゃないですか? 大統領までが迎えに出たという凱旋帰国の際の熱狂ぶりもスゴかったし、終わったばかりの日米野球でも力強いプレーを連発してくれたし(のハズです。実はこれを書いてる時点ではまだ来日もしていないので...)。
だが、この印象の強烈さも、なんとなく手放しで喜べる種類のものではない。というのも、これが、彼の故郷ドミニカ共和国を9月に襲ったハリケーン・ジョージと密接に関係しているからである。このハリケーンによる被害が報告され始めた直後からソーサは積極的に支援活動を始めており、ホームラン王争いが最終段階に入ってマグワイアがノーテンキにバカスカ打ちまくってるのとは対照的に、ソーサは故郷が気がかりでしょうがないといった様子でかなり消耗しているのがテレビ画面からも見て取れるほどであった。
こうして、結果的には66号とマグワイアには1歩及ばない記録に終わってしまったソーサだが、シーズン終了後、彼にとってはもしかしてホームラン王のタイトル以上の意味を持つ名誉ある賞が贈られることになった。それは、グラウンドの内外で目覚しい活躍をした選手に贈られるという“ロベルト・クレメンテ賞”である。プエルトリコ生まれで、1972年の大晦日にニカラグア大地震被災者のための救援物資を積んだ飛行機とともに墜落事故で亡くなったピッツバーグ・パイレーツの名選手=ロベルト・クレメンテを記念して、73年に創設されたものだ。
「クレメンテはラテン系、特にプエルトリコ人選手にとって、偉大なヒーローなんだ」とテキサス・レンジャーズのフアン・ゴンサレス(実はメレンゲの女王=オルガ・タニョンの旦那である)が語るとおり、彼は、現在大リーグにいる57人のドミニカ人、28人のプエルトリコ人、20人のベネズエラ人らのラテン系の選手(全大リーガーの19パーセントを占めるとか)たちに道を拓いた先達ということができる。
1934年4月18日にプエルトリコのカロリーナで生まれたロベルト・ウォーカー・クレメンテは52年、高校在学中にウィンター・リーグのサントゥルセで活躍し、54年には一時期、ブルックリン・ドヂャースのマイナーでプレイ。同じく54年のドラフトでピッツバーグ・パイレーツに一位指名され、亡くなるまでの18年間をパイレーツで過ごすこととなった。この間の記録がとにかくすごい。
*66年…MVP
*71年…ワールド・シリーズMVP
*ナ・リーグ打撃タイトル4回
*オールスター12回
*ゴールド・グラヴ12回
*60年と71年のワールド・シリーズで毎試合安打
*(ちょうど)3000本安打
*生涯打率3割1分7厘......
めぼしいところだけで、こんなにある。彼の活躍によって、アメリカ合州国の中で有形無形の差別を受けているラティーノたち、あるいはラテン・アメリカの貧しい人々がどれだけの勇気を与えられたことだろうか! しかも人助けということに関してクレメンテは、人並み以上の情熱をもっていたようである。「もし物事を良くする機会があるのにそれをしなかったら、人生を無駄にしていることになる」という彼の言葉が、すべてを表しているといえるだろう。
しかし、この献身的な態度が結局、命取りになってしまった。72年12月31日、ニカラグアへの救援物資を積んだ飛行機とともに大西洋に墜落。ロベルト・クレメンテは38歳の若さで、現役バリバリのまま、帰らぬ人となってしまった。現場からは、彼が持っていたブリーフケースが発見されたのみだったという。
これを受けて翌73年、ラテン系としては初めて野球の殿堂入り。また、彼の意志(遺志)を継いだ未亡人らによって故郷プエルトリコにシウダー・デポルティーボ・ロベルト・クレメンテ(ロベルト・クレメンテ・スポーツ・シティ)が完成する。麻薬やアルコールからの矯正施設や身障者のための特別な設備も備えたというここには、もちろん充実したスポーツ施設があり、これまで、さきほどのフアン・ゴンサレスをはじめ、ロベルト・アロマー、イバン・ロドリゲス、カルロス・バエルガなどなど、日本でもおなじみの数多くの大リーガーを輩出している。
こうやって振り返ってみると、プエルトリコ人とドミニカ人という違いはあるにせよ、クレメンテとソーサの間にはずいぶんと似通った部分があることに気がつく。というよりはやはり、ソーサがクレメンテを模範として行動しているということか。なんてったって、ふたりとも、背番号“21”なのである(偶然ではないはずだ)。
(月刊「ラティーナ」1998年12月号)
サルサ・スターが集結したロベルト・クレメンテ・トリビュート・アルバム
ハッキリいって、これまでは桑田がどこの球団に行こうがぜんぜん興味なかった。
が、パイレーツに決めた理由はロベルト・クレメンテ・・・というのを聞いて、見直しましたよ。
1億円の借金(だったかな! 古っ!)とか、なんか、悪いイメージしかなかったんですが。
「ロベルト・クレメンテにならって、ボクもチャリティをやるようになりました」とTVでしゃべってるのを聞いて、なんだ、メチャメチャいいヤツじゃん!って、安直すぎか・・・。
ロベルト・クレメンテといったら、現在、メジャー・リーグで大活躍するラテン系プレイヤーたちの先駆者的存在である。
以下、1998年、サミー・ソーサとマーク・マグワイアがホームラン王争いを繰り広げたときに月刊「ラティーナ」に書いた記事を掲載します。
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日本でも大いに話題になった大リーグのホームラン王争いは、ご存知のとおり、マーク・マグワイアが70本というとてつもない記録を打ち立てて終わった。が、筆者も含めて、特に本誌の読者の中には、サミー・ソーサの方を熱烈に応援していた人も少なくないことと思う。ホント、惜しかったですよね。一応、マグワイアには62号の新記録で華を持たせといて、最終的にはソーサだ!と確信していたんですが、残念でした。でも、どうですか? 印象としては、ソーサの印象の方が格段に強いんじゃないですか? 大統領までが迎えに出たという凱旋帰国の際の熱狂ぶりもスゴかったし、終わったばかりの日米野球でも力強いプレーを連発してくれたし(のハズです。実はこれを書いてる時点ではまだ来日もしていないので...)。
だが、この印象の強烈さも、なんとなく手放しで喜べる種類のものではない。というのも、これが、彼の故郷ドミニカ共和国を9月に襲ったハリケーン・ジョージと密接に関係しているからである。このハリケーンによる被害が報告され始めた直後からソーサは積極的に支援活動を始めており、ホームラン王争いが最終段階に入ってマグワイアがノーテンキにバカスカ打ちまくってるのとは対照的に、ソーサは故郷が気がかりでしょうがないといった様子でかなり消耗しているのがテレビ画面からも見て取れるほどであった。
こうして、結果的には66号とマグワイアには1歩及ばない記録に終わってしまったソーサだが、シーズン終了後、彼にとってはもしかしてホームラン王のタイトル以上の意味を持つ名誉ある賞が贈られることになった。それは、グラウンドの内外で目覚しい活躍をした選手に贈られるという“ロベルト・クレメンテ賞”である。プエルトリコ生まれで、1972年の大晦日にニカラグア大地震被災者のための救援物資を積んだ飛行機とともに墜落事故で亡くなったピッツバーグ・パイレーツの名選手=ロベルト・クレメンテを記念して、73年に創設されたものだ。
「クレメンテはラテン系、特にプエルトリコ人選手にとって、偉大なヒーローなんだ」とテキサス・レンジャーズのフアン・ゴンサレス(実はメレンゲの女王=オルガ・タニョンの旦那である)が語るとおり、彼は、現在大リーグにいる57人のドミニカ人、28人のプエルトリコ人、20人のベネズエラ人らのラテン系の選手(全大リーガーの19パーセントを占めるとか)たちに道を拓いた先達ということができる。
1934年4月18日にプエルトリコのカロリーナで生まれたロベルト・ウォーカー・クレメンテは52年、高校在学中にウィンター・リーグのサントゥルセで活躍し、54年には一時期、ブルックリン・ドヂャースのマイナーでプレイ。同じく54年のドラフトでピッツバーグ・パイレーツに一位指名され、亡くなるまでの18年間をパイレーツで過ごすこととなった。この間の記録がとにかくすごい。
*66年…MVP
*71年…ワールド・シリーズMVP
*ナ・リーグ打撃タイトル4回
*オールスター12回
*ゴールド・グラヴ12回
*60年と71年のワールド・シリーズで毎試合安打
*(ちょうど)3000本安打
*生涯打率3割1分7厘......
めぼしいところだけで、こんなにある。彼の活躍によって、アメリカ合州国の中で有形無形の差別を受けているラティーノたち、あるいはラテン・アメリカの貧しい人々がどれだけの勇気を与えられたことだろうか! しかも人助けということに関してクレメンテは、人並み以上の情熱をもっていたようである。「もし物事を良くする機会があるのにそれをしなかったら、人生を無駄にしていることになる」という彼の言葉が、すべてを表しているといえるだろう。
しかし、この献身的な態度が結局、命取りになってしまった。72年12月31日、ニカラグアへの救援物資を積んだ飛行機とともに大西洋に墜落。ロベルト・クレメンテは38歳の若さで、現役バリバリのまま、帰らぬ人となってしまった。現場からは、彼が持っていたブリーフケースが発見されたのみだったという。
これを受けて翌73年、ラテン系としては初めて野球の殿堂入り。また、彼の意志(遺志)を継いだ未亡人らによって故郷プエルトリコにシウダー・デポルティーボ・ロベルト・クレメンテ(ロベルト・クレメンテ・スポーツ・シティ)が完成する。麻薬やアルコールからの矯正施設や身障者のための特別な設備も備えたというここには、もちろん充実したスポーツ施設があり、これまで、さきほどのフアン・ゴンサレスをはじめ、ロベルト・アロマー、イバン・ロドリゲス、カルロス・バエルガなどなど、日本でもおなじみの数多くの大リーガーを輩出している。
こうやって振り返ってみると、プエルトリコ人とドミニカ人という違いはあるにせよ、クレメンテとソーサの間にはずいぶんと似通った部分があることに気がつく。というよりはやはり、ソーサがクレメンテを模範として行動しているということか。なんてったって、ふたりとも、背番号“21”なのである(偶然ではないはずだ)。
(月刊「ラティーナ」1998年12月号)
サルサ・スターが集結したロベルト・クレメンテ・トリビュート・アルバム
by elcaminante
| 2006-12-19 18:18