2006年 11月 17日
トミー・オリベンシア・・・つづき! |
Espanola Rieさんもありがとうござんした。フアネス、ホントに気さくないいあんちゃん(失礼!)なんですよね・・・
それはともかく、こないだ地下鉄から降りようとしたら、ホームで待ってた先頭のおじいちゃん(ほんとはジ○イ!とか書きたいとこなんですが・・・)が、ドア開いたとたんにグイグイ乗り込んで来るのにはマイッタ! 日頃ガキに「降りる人が済んでから!」といくら口うるさく言ってても、こういう大人がいるんだから、どーしようもないっすね・・・。会社か役所じゃ、かなりの地位まで行った人とお見受けしたが、そういうヤツほど始末が悪い。自分がいいとこ取らないと気がすまないっていうか。それが当たり前だと思ってる。
それと、いまだに、券売機の前に陣取ってから、ゆっくり路線図見て、財布出して、小銭出して、ってやってるオバハン、いますね~。こっちは後ろで、小銭を手に握り締めてイライラしてるっていうのに。あと、いきなりオレの前に立ちふさがって動かない、これもオバちゃん連中とか。「だから、オレの前に立つんじゃねぇ!」・・・と、心の中はかなり騒然とするわけですよね、そういうとき・・・。
あ、全然関係ない話しでした・・・。トミー・オリベンシアの軌跡。つづきです・・・
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このあと歌手のサミー・ゴンサレスが参加し一時期3人体制となったが、サミーは72年に脱退してロベルト・ロエーナのアポロ・サウンドへ移籍。その後再びチャマコとパキートのふたりで『フントス・デ・ヌエボ』(74年)をリリース。この少し前から、たぶんニュー・ヨークでのサルサ・ムーヴメントに影響されてサックスの代わりにトロンボーンを導入し重量感を増していたオリベンシア楽団は、75年、ファニア・オール・スターズでも活躍していた若手ナンバー・ワンのトランペッター=ルイス“ペリーコ”オルティスをプロデューサーに迎え、チャマコだけで名盤『プランテ・バンデーラ』をリリースしたのだった。しかしこのアルバム発表後、チャマコはドラッグの過剰摂取によって帰らぬ人となってしまう。
このころパキート・グスマンはソロ活動を始めており、続く76年には、エディ・パルミエリ楽団で歌っていた18歳のラロ・ロドリゲスとシモン・ペレスを迎えて『イントロデューシング・ラロ・ロドリゲス&シモン・ペレス』を発表。ラロは鬼気迫るような歌いっぷりを聞かせていて、中にはパルミエリ楽団そっくりの曲なども収録されているのが興味深い。しかしラロはこのあとソロ・デビューを控えており、翌77年にはパキートが復帰、シモンとの2枚看板でアルバム『エル・ネグロ・チョンボ』を出した。
それにしても、飛ぶ鳥を落とす勢いとはまさにこのこと! オリベンシア楽団は76年・77年・78年と連続して各国の音楽賞を総ナメにし、78年には、ジャケットの真ん中にトロフィーを配した『ラ・プリメリシマ』、立ちのぼる煙がその昇り調子を象徴するかのような『スウィート・トランペット、ホット・サルサ』と、立て続けにリリースしている。
驀進はまだまだ止まらない。その翌年には、のちにウィリー・ロサリオ楽団をへて人気歌手となるヒルベルト・サンタ・ロサが参加。この作品のあと、フロントをフランキー・ルイス、カルロス・アレクシスというというふたりの若手歌手に一新して、80年代へと船出した。こうしてますます人気が高まる中、フランキーがソロ歌手としてデビューすると、今度はエクトル・トリコーチェ、パキート・アコスタという歌手を迎え、サルサ・ロマンティカ路線へと突き進んでいったのである。
このあと90年代には少し活動は停滞したが、98年、メルビン・マルティネスを中心に、往年のパキート・グスマン、シモン・ペレスがゲスト参加した『ビベ・ラ・レジェンダ』をリリース。そして2001年には芸能生活40周年記念となるプエルト・リコでのライヴ2枚組を発表したものの、その後、体調が芳しくなかったようで、つい先日、9月22日に68歳で亡くなったのである。
それにしても、68歳って、まだまだ若すぎじゃないですか! プエンテもセリアもレイ・バレットも77歳まで生きたのに・・・。もしかして“伝説は生きている(ビベ・ラ・レジェンダ)”なんてアルバムを作ったからじゃないのか!? パキート、チャマコ、シモン、ラロ、ヒルベルト、フランキー、エクトル、“ペリーコ”、さらにティンバレスのエンデル・ドゥエニョ・・・と、そうそうたる音楽家たちを世に送り出してきた“オリベンシア学校”は、まさに名門中の名門だ。しかし、60年代にはハラ・ハラやブーガルーを得意とし、70年代になると最先端のサルサを追求し、さらに80年代半ばからはサルサ・ロマンティカに走り・・・と、時代にあわせて大衆のニーズに奉仕するその姿勢は徹底的に“芸人”のそれである。別にコムズカシイことは全然やらないのだが、いまそのときにみんなが求めているものを的確に提供する。これがカッコいい!
さらにいえば、もともとトランペッターとはいうものの、途中からはほとんどバンマスとしての役割に徹していたのもよい。ポンセーニャのキケ・ルッカにしても、ティト・プエンテにしても、次第にプレイヤーとしてよりもバンドの“顔”としての役目が重要になってくるのは必然だ。そんなところにも人間のデカさを感じさせる。偉大なバンマスに、合掌。
それはともかく、こないだ地下鉄から降りようとしたら、ホームで待ってた先頭のおじいちゃん(ほんとはジ○イ!とか書きたいとこなんですが・・・)が、ドア開いたとたんにグイグイ乗り込んで来るのにはマイッタ! 日頃ガキに「降りる人が済んでから!」といくら口うるさく言ってても、こういう大人がいるんだから、どーしようもないっすね・・・。会社か役所じゃ、かなりの地位まで行った人とお見受けしたが、そういうヤツほど始末が悪い。自分がいいとこ取らないと気がすまないっていうか。それが当たり前だと思ってる。
それと、いまだに、券売機の前に陣取ってから、ゆっくり路線図見て、財布出して、小銭出して、ってやってるオバハン、いますね~。こっちは後ろで、小銭を手に握り締めてイライラしてるっていうのに。あと、いきなりオレの前に立ちふさがって動かない、これもオバちゃん連中とか。「だから、オレの前に立つんじゃねぇ!」・・・と、心の中はかなり騒然とするわけですよね、そういうとき・・・。
あ、全然関係ない話しでした・・・。トミー・オリベンシアの軌跡。つづきです・・・
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このあと歌手のサミー・ゴンサレスが参加し一時期3人体制となったが、サミーは72年に脱退してロベルト・ロエーナのアポロ・サウンドへ移籍。その後再びチャマコとパキートのふたりで『フントス・デ・ヌエボ』(74年)をリリース。この少し前から、たぶんニュー・ヨークでのサルサ・ムーヴメントに影響されてサックスの代わりにトロンボーンを導入し重量感を増していたオリベンシア楽団は、75年、ファニア・オール・スターズでも活躍していた若手ナンバー・ワンのトランペッター=ルイス“ペリーコ”オルティスをプロデューサーに迎え、チャマコだけで名盤『プランテ・バンデーラ』をリリースしたのだった。しかしこのアルバム発表後、チャマコはドラッグの過剰摂取によって帰らぬ人となってしまう。
このころパキート・グスマンはソロ活動を始めており、続く76年には、エディ・パルミエリ楽団で歌っていた18歳のラロ・ロドリゲスとシモン・ペレスを迎えて『イントロデューシング・ラロ・ロドリゲス&シモン・ペレス』を発表。ラロは鬼気迫るような歌いっぷりを聞かせていて、中にはパルミエリ楽団そっくりの曲なども収録されているのが興味深い。しかしラロはこのあとソロ・デビューを控えており、翌77年にはパキートが復帰、シモンとの2枚看板でアルバム『エル・ネグロ・チョンボ』を出した。
それにしても、飛ぶ鳥を落とす勢いとはまさにこのこと! オリベンシア楽団は76年・77年・78年と連続して各国の音楽賞を総ナメにし、78年には、ジャケットの真ん中にトロフィーを配した『ラ・プリメリシマ』、立ちのぼる煙がその昇り調子を象徴するかのような『スウィート・トランペット、ホット・サルサ』と、立て続けにリリースしている。
驀進はまだまだ止まらない。その翌年には、のちにウィリー・ロサリオ楽団をへて人気歌手となるヒルベルト・サンタ・ロサが参加。この作品のあと、フロントをフランキー・ルイス、カルロス・アレクシスというというふたりの若手歌手に一新して、80年代へと船出した。こうしてますます人気が高まる中、フランキーがソロ歌手としてデビューすると、今度はエクトル・トリコーチェ、パキート・アコスタという歌手を迎え、サルサ・ロマンティカ路線へと突き進んでいったのである。
このあと90年代には少し活動は停滞したが、98年、メルビン・マルティネスを中心に、往年のパキート・グスマン、シモン・ペレスがゲスト参加した『ビベ・ラ・レジェンダ』をリリース。そして2001年には芸能生活40周年記念となるプエルト・リコでのライヴ2枚組を発表したものの、その後、体調が芳しくなかったようで、つい先日、9月22日に68歳で亡くなったのである。
それにしても、68歳って、まだまだ若すぎじゃないですか! プエンテもセリアもレイ・バレットも77歳まで生きたのに・・・。もしかして“伝説は生きている(ビベ・ラ・レジェンダ)”なんてアルバムを作ったからじゃないのか!? パキート、チャマコ、シモン、ラロ、ヒルベルト、フランキー、エクトル、“ペリーコ”、さらにティンバレスのエンデル・ドゥエニョ・・・と、そうそうたる音楽家たちを世に送り出してきた“オリベンシア学校”は、まさに名門中の名門だ。しかし、60年代にはハラ・ハラやブーガルーを得意とし、70年代になると最先端のサルサを追求し、さらに80年代半ばからはサルサ・ロマンティカに走り・・・と、時代にあわせて大衆のニーズに奉仕するその姿勢は徹底的に“芸人”のそれである。別にコムズカシイことは全然やらないのだが、いまそのときにみんなが求めているものを的確に提供する。これがカッコいい!
さらにいえば、もともとトランペッターとはいうものの、途中からはほとんどバンマスとしての役割に徹していたのもよい。ポンセーニャのキケ・ルッカにしても、ティト・プエンテにしても、次第にプレイヤーとしてよりもバンドの“顔”としての役目が重要になってくるのは必然だ。そんなところにも人間のデカさを感じさせる。偉大なバンマスに、合掌。
by elcaminante
| 2006-11-17 18:38