2009年 07月 01日
『El Malo』が |
『Bad』より20年早い・・・っていうのはさ、べつに、「早いから偉いだろ」と言ってるわけではないのだ。
もちろんそういう意味も少しはあっただろうけど、
それよりは、当時、マイケル・ジャクソン一辺倒になっていた世の中に対して
「それもいいけど、こういうのもありまっせ。しかも、20年も前にやってたんだよ!」
って、注意を喚起することが主眼だったはずである。
ま、だからといって、どれくらいの人がそれに気づいたかは、わからないんだけど・・・。
それはともかく、
来る7月10日(金)には新宿・歌舞伎町で、「エル・カンタンテ」公開記念のイベントをブチかますわけなのだが、
http://www.salsaclub.jp/vibes_m.html
そのときに、「マンボラマTokyo」特別選曲による・・・・・・をプレゼントしようかと、いま画策しているところだ。
で、ついでに、94年にP-VINEから出した『エクトル・ラボー物語』に河村さんが寄せた素晴らしすぎる追悼文「僕の心の永遠の宝石」という文章も掲載してしまおうか・・・と。
ぜひ乞うご期待・・・というわけで、
きょうは、映画「エル・カンタンテ」のパンフレット用に俺が書いた文章を載せておくことにする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「エクトル・ラボーとニューヨーク・サルサ」
いまは亡き偉大なサルサ歌手エクトル・ラボーの生涯を描いた映画「エル・カンタンテ」。タイトルの“エル・カンタンテ”とは彼のニックネームで、英語でいえば“ザ・シンガー”、日本語だと“歌手の中の歌手”といった感じになるだろうか。亡くなってから今年で16年・・・。エクトル・ラボーの歌はいまだに人々の心をとらえて離さない。それは、彼が常に“人生”を歌っていたからだ。
リアルタイムで聞いていた同世代の人々はもちろん、彼の歌は、いまの若者たちの間でも絶大な人気を誇っている。故ナット・キング・コールと現代のトップ・アーティストたちが時空を超えて共演した話題のアルバム『ナット・キング・コール:リ・ジェネレーションズ』と同様、ドン・オマールやTHE DEYといったラテン・ヒップヒップ・アーティストたちがエクトルとコラボした『トリブート・ウルバーノ・ア・エクトル・ラボー』(2007年)というアルバムがリリースされていることからも、いかに幅広い世代から愛されているかがわかるだろう。
1946年、プエルトリコ南部の古都ポンセで音楽一家に生まれたエクトルは、幼いころからヒバロ音楽に夢中になっていたという。これは、プエルトリコの白人農民(ヒバロ)に伝わる、スペインの影響を色濃く残す音楽だ。彼は、ラジオから流れるさまざまなヒバロ歌手をそっくりに真似するようになっていったそうだ。そして、次第に歌手になることを夢見るようになり、17歳のとき、家出同然でニューヨークに渡ってブロンクスの姉の家に転がり込んだのである。
こうしてさまざまなバンドで歌い始めた彼はやがて、ジョニー・パチェーコと出会う。64年にユダヤ人弁護士のジェリー・マスッチとともにファニア・レコードを設立、積極的に若い才能を探していたパチェーコは、これからデビューさせる予定だったウィリー・コローンのバンドを紹介し、ここに黄金コンビが誕生した。67年、アルバム『エル・マロ』でデビューした彼らは、プエルトリカンに対するステレオタイプなイメージを逆手に取り、“ワル”を全面に打ち出した戦略で、次から次へとヒットを飛ばし快進撃を続けることになるわけである。
それまでのラテン音楽界は、なんといってもキューバが主流であった。マンボ、チャチャチャ、パチャンガと大ブームはすべてキューバからやって来たものだったのである。しかし、キューバ革命以後、60年代に入ると、ニューヨーク独自のラテン音楽を作り出す必要性に迫られていたのも事実だった。そんなときに聞こえてきたエクトル・ラボーの声・・・それはまさに、ニューヨークというコンクリート・ジャングルの中に響き渡るヒバロの、つまり、故郷プエルトリコの歌声であった。キューバ人歌手の堂々たる歌いっぷりとは全然違うし、同じプエルトリコ出身でも、黒人のイスマエル・リベーラのコッテリ感とも違う。どちらかというとひ弱な感じの、ある種、情緒不安定なその歌声・・・。だがそこには、内に秘めた強靭な生命力と、次から次へと溢れ出るたくましいイマジネーションがあった。そしてなによりも、プエルトリコのひなびた匂いが強烈に漂っていたのだ。
ニューヨークに暮らすプエルトリカンたちは、エクトルの歌声を聞いて、新しいラテン音楽――キューバ音楽ではなく、ニューヨークのプエルトリカンたちが主体となって生み出していく新時代のラテン音楽――の到来を実感したことだろう。それがつまり、サルサという音楽の誕生なのである。
70年代になると、エクトルはウィリーとのコンビを解消してソロとなり、自らの楽団を率いて活動を開始(とはいってもウィリーのプロデュース作品がほとんどだったが)。名曲「エル・カンタンテ」を収録したアルバム『コメディア』や『デ・ティ・デペンデ』など、素晴らしい作品を世に送り出していくことになった。
だが同時に、私生活では、破滅への坂を転がり落ちていく。以前から続いていた酒とドラッグの濫用がますますひどくなり、まともに仕事に出かけられないような状態に陥っていくのである。そこには、スターの奢りもあったかもしれない。しかし、子供のころから彼のまわりに次々と起こったあまりにも悲劇的なできごとの数々を考えれば、その重圧に耐え切れなかったのでは?という人もいる。だからといって、ジャンキーになっても仕方がない・・・とはいわないが、当時のプエルトリカンたちの中にはおそらく多かれ少なかれ同じような悲惨な体験をしている人も多く、彼らはエクトルの影をどこかで自分たちに投影していたのかもしれない。
さて、本作で主役を張るのは、やはりこの人しかいない・・・と誰もが納得するマーク・アンソニーだ。69年生まれのニューヨリカン(ニューヨーク生まれのプエルトリカン)で、はじめはハウスを歌っていたが93年にサルサに転向。新世代のサルサ・シーンを牽引し、英語マーケットにも進出した素晴らしい歌手である。そして奥さんの“プチ”に扮するのは、実生活でもマークの伴侶であり今回プロデューサーもつとめるジェニファー・ロペス。ブロンクス生まれのニューヨリカンで、売れっ子女優でありシンガーであることはご存知のとおりだ。
(続く)
もちろんそういう意味も少しはあっただろうけど、
それよりは、当時、マイケル・ジャクソン一辺倒になっていた世の中に対して
「それもいいけど、こういうのもありまっせ。しかも、20年も前にやってたんだよ!」
って、注意を喚起することが主眼だったはずである。
ま、だからといって、どれくらいの人がそれに気づいたかは、わからないんだけど・・・。
それはともかく、
来る7月10日(金)には新宿・歌舞伎町で、「エル・カンタンテ」公開記念のイベントをブチかますわけなのだが、
http://www.salsaclub.jp/vibes_m.html
そのときに、「マンボラマTokyo」特別選曲による・・・・・・をプレゼントしようかと、いま画策しているところだ。
で、ついでに、94年にP-VINEから出した『エクトル・ラボー物語』に河村さんが寄せた素晴らしすぎる追悼文「僕の心の永遠の宝石」という文章も掲載してしまおうか・・・と。
ぜひ乞うご期待・・・というわけで、
きょうは、映画「エル・カンタンテ」のパンフレット用に俺が書いた文章を載せておくことにする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「エクトル・ラボーとニューヨーク・サルサ」
いまは亡き偉大なサルサ歌手エクトル・ラボーの生涯を描いた映画「エル・カンタンテ」。タイトルの“エル・カンタンテ”とは彼のニックネームで、英語でいえば“ザ・シンガー”、日本語だと“歌手の中の歌手”といった感じになるだろうか。亡くなってから今年で16年・・・。エクトル・ラボーの歌はいまだに人々の心をとらえて離さない。それは、彼が常に“人生”を歌っていたからだ。
リアルタイムで聞いていた同世代の人々はもちろん、彼の歌は、いまの若者たちの間でも絶大な人気を誇っている。故ナット・キング・コールと現代のトップ・アーティストたちが時空を超えて共演した話題のアルバム『ナット・キング・コール:リ・ジェネレーションズ』と同様、ドン・オマールやTHE DEYといったラテン・ヒップヒップ・アーティストたちがエクトルとコラボした『トリブート・ウルバーノ・ア・エクトル・ラボー』(2007年)というアルバムがリリースされていることからも、いかに幅広い世代から愛されているかがわかるだろう。
1946年、プエルトリコ南部の古都ポンセで音楽一家に生まれたエクトルは、幼いころからヒバロ音楽に夢中になっていたという。これは、プエルトリコの白人農民(ヒバロ)に伝わる、スペインの影響を色濃く残す音楽だ。彼は、ラジオから流れるさまざまなヒバロ歌手をそっくりに真似するようになっていったそうだ。そして、次第に歌手になることを夢見るようになり、17歳のとき、家出同然でニューヨークに渡ってブロンクスの姉の家に転がり込んだのである。
こうしてさまざまなバンドで歌い始めた彼はやがて、ジョニー・パチェーコと出会う。64年にユダヤ人弁護士のジェリー・マスッチとともにファニア・レコードを設立、積極的に若い才能を探していたパチェーコは、これからデビューさせる予定だったウィリー・コローンのバンドを紹介し、ここに黄金コンビが誕生した。67年、アルバム『エル・マロ』でデビューした彼らは、プエルトリカンに対するステレオタイプなイメージを逆手に取り、“ワル”を全面に打ち出した戦略で、次から次へとヒットを飛ばし快進撃を続けることになるわけである。
それまでのラテン音楽界は、なんといってもキューバが主流であった。マンボ、チャチャチャ、パチャンガと大ブームはすべてキューバからやって来たものだったのである。しかし、キューバ革命以後、60年代に入ると、ニューヨーク独自のラテン音楽を作り出す必要性に迫られていたのも事実だった。そんなときに聞こえてきたエクトル・ラボーの声・・・それはまさに、ニューヨークというコンクリート・ジャングルの中に響き渡るヒバロの、つまり、故郷プエルトリコの歌声であった。キューバ人歌手の堂々たる歌いっぷりとは全然違うし、同じプエルトリコ出身でも、黒人のイスマエル・リベーラのコッテリ感とも違う。どちらかというとひ弱な感じの、ある種、情緒不安定なその歌声・・・。だがそこには、内に秘めた強靭な生命力と、次から次へと溢れ出るたくましいイマジネーションがあった。そしてなによりも、プエルトリコのひなびた匂いが強烈に漂っていたのだ。
ニューヨークに暮らすプエルトリカンたちは、エクトルの歌声を聞いて、新しいラテン音楽――キューバ音楽ではなく、ニューヨークのプエルトリカンたちが主体となって生み出していく新時代のラテン音楽――の到来を実感したことだろう。それがつまり、サルサという音楽の誕生なのである。
70年代になると、エクトルはウィリーとのコンビを解消してソロとなり、自らの楽団を率いて活動を開始(とはいってもウィリーのプロデュース作品がほとんどだったが)。名曲「エル・カンタンテ」を収録したアルバム『コメディア』や『デ・ティ・デペンデ』など、素晴らしい作品を世に送り出していくことになった。
だが同時に、私生活では、破滅への坂を転がり落ちていく。以前から続いていた酒とドラッグの濫用がますますひどくなり、まともに仕事に出かけられないような状態に陥っていくのである。そこには、スターの奢りもあったかもしれない。しかし、子供のころから彼のまわりに次々と起こったあまりにも悲劇的なできごとの数々を考えれば、その重圧に耐え切れなかったのでは?という人もいる。だからといって、ジャンキーになっても仕方がない・・・とはいわないが、当時のプエルトリカンたちの中にはおそらく多かれ少なかれ同じような悲惨な体験をしている人も多く、彼らはエクトルの影をどこかで自分たちに投影していたのかもしれない。
さて、本作で主役を張るのは、やはりこの人しかいない・・・と誰もが納得するマーク・アンソニーだ。69年生まれのニューヨリカン(ニューヨーク生まれのプエルトリカン)で、はじめはハウスを歌っていたが93年にサルサに転向。新世代のサルサ・シーンを牽引し、英語マーケットにも進出した素晴らしい歌手である。そして奥さんの“プチ”に扮するのは、実生活でもマークの伴侶であり今回プロデューサーもつとめるジェニファー・ロペス。ブロンクス生まれのニューヨリカンで、売れっ子女優でありシンガーであることはご存知のとおりだ。
(続く)
by elcaminante
| 2009-07-01 02:53